私が開祖と初めて出会ったのは、抑留されていた旧ソ連から復員してきて、国鉄(現JR)の多度津操車信号係をしていた1950(昭25)年の正月でした。そのころ、多度津駅に所属していた国鉄の運転手や機関士、公安官のほとんどが少林寺拳法を習っていましたので、「紹介してくれ」と頼み、開祖のところへあいさつに行ったのです。開祖は、黒い着物を着て、壮士風のこわそうな感じでしたが、どこか人をひきつける魅力を持っておられました。開祖は私が「弟子にしてくだ
練習は夜の7時ごろから始まりました。私の仕事は一昼夜交代の勤務でしたので、それに合わせて、勤務明けや休みの日には朝や昼間に行き、また、時間をみはからって夜にも行きまし 私は必死に練習をしました。強くなりたかったのはもちろんですが、私は23年に愛媛県西条市に生まれて、地元の尋常高等小学校を出るとすぐに国鉄に入り、44年に軍隊にとられて、その後、旧ソ連に抑留されていたものですから、日本に対する思慕が強く、 自分を鍛えて日本を良くしたいという気持ちも人一倍強くあったからです。練習は週に3回でしたが、ただただ熱中するというありさまでした。
そんなある日のことです。開祖から「新居浜で少林寺拳法を教えてやらんか」と、尋ねられたのです。新居浜の青年会の入たちが、少林寺拳法を習いたいと言ってきたので、行って教えろ 新居浜では青年会堂を借りて新居分道院をつくり、53年4月から練習を始めました。ところが、その年の12月に、青年会から青年クラブに建て変えるので出て行ってくれと言ってきました。仕方なく道場を閉鎖して、その後、西条市と新居浜市のほぼ中間の中萩に中萩道院を設けたのですが、ここも通いで教えるのには無理があって、うまくいきませんでした。そこで西条市に道院を開くことを決意したのです。 西条市を選んだのは、私が、開祖と初めて出会った年の1月20日に結婚して西条市に新所帯を持っていたからです。しかし、西条市に道院をつくるというのは、並大抵のことではありませんでした。というのは、西条では少林寺拳法を空手と思っている人が多く、練習場所を借りたくても、壁を壊すだろうといって、貸してくれないんです。もちろん学校もだめです。そこで私の家の裏の畑にむしろを敷いてやることにしたのですが、吹きさらしですから、冬は寒い。やはり道場がなくてはどうしようもありません。それで国鉄から住宅基金の10万円を借りて、間口三間、奥行き四間の道場を建てることにしたのですが、10万円くらいでは、大工の手間賃も出ません。私は20人ほどいた弟子と一緒に手作りで建てることにして、丸太を買ってきてちょうなで削り、床板にかんなをかけたり、壁土は手でこねて張りつけたりして、四年がかりでようやく完成させたのです。練習時間の3時間のうち2時間は道場建設に従事するという状態でした。
このようにして西条道院はできたのですが、道場を持つとすべてを自分でやらなくなてはなりません。それにいろいろな問題が起こって、落ち込み、本部へしばしば行ったものです。そん
●1955年5月、愛媛県新居浜市の飯尾氏宅にて第1回公開記念式典前列
左端が近藤道文。 |
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